ゲルマニウムとは、約100年前にドイツで発見された亜金属元素で無機と有機がある。無機ゲルマニウムは鉱物に含まれる、金属でも非金属でもないその中間の「半導体」である。生体電流を整える作用があると言われており、ブレスレットのようなかたちで身につけることで「肩こり解消」、「老化を防ぐ」「免疫力を高める」などの効果がある。 有機ゲルマニウムは漢方薬の原料となる植物(サルノコシカケ、高麗人参、山豆根、田七人参、クコの実、ニンニク)などに多く含まれている。酸素が多く含まれていて、体内に入ることによって、汚染物質や毒素を無毒化したり追い出し、活性酸素を消去する働き、血流を促進する、新陳代謝を高めるなどの働き等があると言われている。 視力回復の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。文永11年(1274年)には四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、他阿らに会い、彼らを時衆として引き連れるようになる。 美容整形各地を行脚するうち、弘安2年(1279年)信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。 弘安5年(1282年)には鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂入りし、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は書写山を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。 正応2年(1289年)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。 レーシックを率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を賦算(ふさん)と踊り念仏とで極楽浄土へと導いた。その教理は絶対他力による「十一不二」に代表される。浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、入寂に際して「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と自らの著作を燃やしたという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。 エステサロンな法語、和歌 旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌となっている) 身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ 生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり 夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。